歴史案内

 

【今川氏親公の菩提寺として】

「亡くなった氏親公を生きるが如くお祀りし 禅定を得るための修行道場」 

現在、増善寺が建てられている場所は、本来は開基である今川氏親公を祀る塔頭があった場所でした。

荒廃していた慈悲寺を辰応性寅禅師が1480年に復興されたのち、

1492年に今川氏親公が増善寺として新たに創設されました。

当初は大伽藍が存在し 100人を超える雲水が修行する大寺院でありました。

また 氏親公が増善寺にて 仏道を求める心を詠まれた歌があります

 「いかがえむ 四十あまりの年のをに とかぬ所の法のまことを」

寺の山門を入ってすぐ右手にこの歌の歌碑もございます。 

 

大永六年(1526)に氏親公が没すると、増善寺にて大葬儀が行われました。

今川氏親公の墓は山の中腹にあり、木像は開山堂にお祀りされています。

「亡くなった氏親公を生きるが如くお祀りし、花や香をお供し智恵を求め、禅定を得るための修行道場」

増善寺は今川家の大切な聖域として古より護られてきたのです。 

 

 ※今川氏親公木像は通常非公開です。

今川氏親公御命日法要(毎年6月23日)にて拝観していただけます。

平素は今川氏親公複製木像の展示を静岡市歴史博物館にてご覧いただけます。

静岡市歴史博物館のHPよりご確認ください。

静岡市歴史博物館 公式HP

 

 

【松平豊前守勝政と徳川家】

松平豊前守勝政は安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、増善寺に大変貢献した武将です。

水野忠分の五男として生まれましたが、徳川家康の生母である於大の方の願いにより、

久松松平家の婿養子となり家督を継承しました。

水野家は於大の方の生家でもあり、豊前守勝政は徳川家康の従兄弟にあたります。

 松平豊前守勝政は関ヶ原の戦いや大阪の陣に参戦し、家康から厚い信頼を得た人物であり、

元和五年(1619)には大番頭 その後に駿府城番に任命されました。

こうした重職にあり、当時、徳川家から御朱印を拝領されていなかった増善寺に御朱印が下されるよう、

寺社奉行らと交渉し、寺領を貰うために奔走した人物であり増善寺の恩人です。

寛永十二年(1635)六月十日に六十三歳で死去し増善寺に埋葬されました。 

増善寺の旧墓地を上がってすぐ右手の二つの大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)に 

松平豊前守勝政と孫の松平勝忠の墓が並んでいます。 

 

また 徳川家康は幼少のみぎり、駿府に居た頃に増善寺へと遊びに来ては

等膳和尚に諭されたという記録が残っております。

当寺は徳川家とも縁の深い寺院でもあります。

 

 

 【駿府町奉行 柘植平右衛門正俊の墓】

柘植平右衛門正俊は織田信長の五男(織田信治)の子で、江戸幕府では旗本として家康に仕えました。

正俊は関ケ原の合戦で東軍側として参戦し軍功を上げ、駿府町奉行を務めていました。

その後、慶長十六年(1611)六月一日に駿府にて没し、増善寺に葬られました。

柘植平右衛門正俊の子孫は幕末まで旗本として存続しています。

また その隣には駿府町奉行与力として活躍した旗本・力石家の墓もございます。 

 

曹洞宗 慈悲山 増善寺

住所 :〒420-0866 静岡県静岡市葵区慈悲尾302

電話 : 054(278)6333

 

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